2017年9月9日土曜日

涼宮ハルヒの憂鬱

話者、視点の複数性。それがラノベ(ライトノベル)の代表的な名作、『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流・原作)を筆頭とする「涼宮ハルヒシリーズ」の特長だ。本作は、2006年、2009年にテレビシリーズとして(全28話)、2010年には映画『涼宮ハルヒの消失』として、アニメ化された(制作は京都アニメーション)。本作は学生を中心として社会が排除されたSF的な世界観からセカイ系、また少女を中心とした日常(学園生活)の語のため空虚系(日常系)とも分類される。
『ハルヒ』のアニメはキョンという少年による一人称の叙述の形式を取る。これは原作を強襲したもので、ラノベでは多用される。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』もその例だが、アニメでは異なる。一人称の多用はふたつの理由がある。まず、読者に年齢等で近い存在の主人公視点が共感を醸成しやすいこと。次にセカイ系で述べたように、世界が主人公の自意識と補完し合うことと関わる。作品が成功するなら、主人公視点は読者の目線と一体化する。その視点は世界をすみずみまで覆い、その主要構成物である少女たちと混じり合う。
『ハルヒ』がこれらと異なるのは、その物語構造に由来する。
「ただの人間には、興味がありません。このなかに、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、私のところに来なさい」『涼宮ハルヒの憂鬱』第1話
高校1年の始業のさい、クラスの自己紹介で涼宮ハルヒはこう宣言した。それは自他に対する平凡なものへの拒否だった。キョンもまるで相手にはされなかったが、とあるきっかけから彼女と親密になる。それは彼のなにげない発言が、彼女にとって物事を整理し、検討する論点を与えたことによる。
ハルヒは嫌がるキョンとともにSOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)を同好会として無理矢理立ち上げるが、退屈さを吹き飛ばす面白いことがしたいだけなので、確たる目的はない。思いつきで3人ほど強引に引き込む。その3人は、無口のメガネ女子の長門有希、ドジッ子で萌え系の朝比奈みくる、つかみ所のなさと完璧な振る舞いが印象に残る美少年・小泉一樹と、それぞれバラエティに富み、キャラクターの記号配分のバランスは完璧だ。ここまではありふれた学園ドラマだが、3人の正体が宇宙人 (対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース)、未来人、超能力者であることがわかってくると、物語はSFのトーンが前面に出てくる。
SF風味の学園ドタバタコメディというと、まず思い浮かぶのは『うる星やつら』だ。しかし『うる星やつら』はステップスティック調が基本トーンであるだけに、全体がハレ=非日常の物語世界だ。これに対し、アニメ『ハルヒ』の第1話の冒頭はモノトーン調の暗色で始まり、キョンの生活の無味乾燥への諦念に満ちたモノローグで始まる。それは幼少時代の回想だ。
「…アニメ的、特撮的、漫画的ヒーローたちがこの世に存在しないのだということに気付いたのは相当後になってからだった。いや、本当は気付いていたのだろう。ただ、気付かさたくなかっただけなのだ」
キョンの視点により語られていく本作は、ハルヒの先の爆弾宣言から彩りを持つ鮮やかで輝いたものに変貌していく。「ミステリックサイン」のような情報生命体の暴走による失踪事件のSFミステリーがある一方、「ライブアライブ」や「サムディ イン ザ レイン 」のような青春の酸味と寂寞さが加味されたドラマもある。演出は(小説が題材というせいもあるが)、顔や身体が似顔絵の崩れたタッチに変貌、画面にびっくりマークが出現、あるいは飛び上がるような、マンガ的な記号で緩急を付ける演出方法は採られない。その意味で写実性が強い。
キョンのモノローグで物語が進行するという話法を活かし、カメラはしばしば彼の視点を感じさせる広角的なバースのゆがみとアップが使用される。画面の変化と動きの多さは、キャラクターの感情を伝える心理のドラマであることも強調する。一方、被写界深度を浅く取ることによる、手前あるいは奥の事物のピンぼけも散見される。それは、キョンの視点、観察では窺い知れない何かが潜むことを示唆する。その意味で、ドラマ空間には奥行きもまた感じさせる。
SOS団に異能の存在が集まった理由は何だろうか。それはなかばかれらの意志でもあり、またハルヒの「意志」でもある。「おそらく彼女には自分の都合のいいように周囲の環境情報を操作する力がある」(長門)、「過去への道を閉ざしたのは涼宮さんなのは確か」(朝比奈)、「実はこの世界はある存在が見ている夢のようなものなのではないか」(小泉)(いずれも第3話)。3人は、ハルヒが環境と因果律に干渉でき、あるいは世界そのものを自由に創造/改変できる存在ではないかと指摘する。だが少なくともそれは推測であり、正確な実像は物語の中で呈示されない(なかった)。長門は情報統合思念体の自律進化の可能性を探る鍵として、朝比奈は時間変動の実情を見定めるため、小泉は再創造で世界が消失しないため、ハルヒを探り、見守る役割を担っている。
『ハルヒ』という物語は、ナレーターであるキョンがハルヒという存在を通じて、世界の驚異を体験し、その摂理の一端を知る探索の面を持つ。それはきわめて平凡な存在(今のところ)であるキョンだからこそ、できうることだ。
では、世界はハルヒにとってどのようなものだろうか。彼女は、自身が世界を創造/干渉できる存在との自覚はゼロである。彼女は無自覚に自身の周囲に、宇宙人、未来人、超能力者を集める。
だがそれに気づかないため退屈感に焦燥的に苛まれ、飽くことのない探求と騒動を巻き起こしていく。そこには非日常的で超常的な現象もあり、あるいは彼女とキョンをめぐる超常的な争闘がある。しかし、彼女はそれに決して気付くことはない。その中で彼女は非日常ではなく、むしろ日常に潜むものの尊さに気付かされていく。それはキョンというかけがえのない存在であり、3人の部員という友人であり、あるいは「ライブアライブ」でひょんなことから「らしくもない」手助けした人の感謝の真心であったりする。それは、宇宙人、未来人、超能力者という彼女が願望して引き寄せた/創造した存在でないがゆえに他者であり、自身(の延長、接続物)でないものだからこそ意味がある。つまり、本作は彼女が他者を探す出会いの物語でもある。付言するなら、無意識下の非日常、非常を抑制して顕在意識を正常化する物語とも言える。
これに対し、キョンにとってこの物語は自らが捨ててしまったものとの出会いでもある。それは「宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織」に代表される憧れや可能性である。それを体現するのが、自らの思うことを果断速効で行動に移すハルヒだ。
つまり、本作はキョンとハルヒの合わせ鏡の構造を持っている。世界は、キョンとハルヒのふたりによって見られ、探索され、解釈され、理解される。そしてその求める方向性は異なるものの、互いであることは共通する。叙述はキョンによるが、プロットはハルヒによって用意される。その中で世界はキョンとハルヒの複数の視点から読み込まれ、語られていく。その豊かさを本作は持っている。
それは原作が小説であるように、世界そのものが読まれることを待つ一冊の本であるからと言えるかもしれない。

「楽器の王」オルガンとモーツァルト

1999年8月27日、大阪いずみホールでは、年二回の「パイプオルガン・シリーズ」の一環として「美しきモーツァルト」というコンサートが開かれた。モーツァルトのオルガン曲のみを特集する企画で、出演者は井上圭子さんであった。 モーツァルトのオルガン曲のみによるコンサートはめずらしく、...